ΦωΦ
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*自分用記録メモですが
今後の参考に少しでもなればと思うので公開します。
トラウマになるような記述は多分ありませんので安心してお読み下さい。
地震の時、わたしは仙台の街中にあるビルの6階にいて仕事中だった。
某企業のコールセンターで、仙台のお客さまからの電話を受けていた。
観葉植物とホワイトボードが倒れ、机の上の資料が全部落ちたが
モニタは机に固定され、机は床に固定されていたらしく
机にしがみついていれば体を固定することが出来た。
新しい建物ではないが、こういう通信センターが入っているところは耐震対策はしっかりしているだろうと思ってあまり心配してなかったし
ビルの6階で揺れが増幅されることを考慮して、ぶっちゃけあまり怖くもなかった。
わたしの後ろの方の席で「怖い」と悲鳴をあげている人がいて
それが話中のお客さまに聞こえて恐怖感を煽ってしまうのではないかという方が心配だった。
最初はお客さまと「地震ですね、そちらは大丈夫ですか」等とやりとりしていた。
そのうち物音だけしか聞こえなくなり、
一瞬停電があり、システムがダウンし、揺れがおさまっても
電話はつながっていた。
筆談で上司に判断を仰ぎ(冷静なつもりだったがわたしも少し混乱していたのかもしれない)、
何度か「お客さま?」と呼びかけた後、
「応答がないようですのでこちらからお電話をきらせていただきます。」
と言った途端、あちらからきれた。
名前も詳しい住所も覚えていないが、彼が無事であることを切に願う。
今後の参考に少しでもなればと思うので公開します。
トラウマになるような記述は多分ありませんので安心してお読み下さい。
地震の時、わたしは仙台の街中にあるビルの6階にいて仕事中だった。
某企業のコールセンターで、仙台のお客さまからの電話を受けていた。
観葉植物とホワイトボードが倒れ、机の上の資料が全部落ちたが
モニタは机に固定され、机は床に固定されていたらしく
机にしがみついていれば体を固定することが出来た。
新しい建物ではないが、こういう通信センターが入っているところは耐震対策はしっかりしているだろうと思ってあまり心配してなかったし
ビルの6階で揺れが増幅されることを考慮して、ぶっちゃけあまり怖くもなかった。
わたしの後ろの方の席で「怖い」と悲鳴をあげている人がいて
それが話中のお客さまに聞こえて恐怖感を煽ってしまうのではないかという方が心配だった。
最初はお客さまと「地震ですね、そちらは大丈夫ですか」等とやりとりしていた。
そのうち物音だけしか聞こえなくなり、
一瞬停電があり、システムがダウンし、揺れがおさまっても
電話はつながっていた。
筆談で上司に判断を仰ぎ(冷静なつもりだったがわたしも少し混乱していたのかもしれない)、
何度か「お客さま?」と呼びかけた後、
「応答がないようですのでこちらからお電話をきらせていただきます。」
と言った途端、あちらからきれた。
名前も詳しい住所も覚えていないが、彼が無事であることを切に願う。
職場には100人超いたと思うが怪我人はなく、全員無事だった。
余震が続き、30分程その場(机の下)で待機した後
順番にロッカールームへ所持品と上着を取りに行った。
すぐに171へ伝言を残そうと思ったが繋がらなかった。
3月9日の地震の時、結構すぐにうちの親や友達から電話やメールがあったので
まずは無事を知らせなくてはと思い、このブログと夫、父、妹、義母に一斉メールを送った。
ミクシィにもログイン出来たので、「無事です。被災地への電話・メールはしばらくお控え下さい。わたしの無事は広めて下さって結構です。」とつぶやいた。
近くの席でワンセグを起動している人に画面を少し見せてもらったが
文字はつぶれてどこが震源地かわからなかった。
多分どこかの津波の模様が映っていたと思う。
その時はまだ被害の状況などもわかっていなかったので
「今回のが宮城県沖地震だったらいいね。」などと呑気に話し合っていた。
(宮城県沖地震は30年周期に99%の確率で起こり、もういつきてもおかしくないと言われていたのだ。)
ガラスが割れると危険なので窓には近づけず、ブラインドも閉まったいたので
外の様子を確認することも出来なかったが
隙間から雪が降っているのが見えて、今日は家に帰れないかもしれないと覚悟した。
(以前このブログにも書いたリーボックのシューズは歩くのは心地よいが、雨や雪の時はとても滑り安く危険なのだ。ちなみに階段もちょっと危険。)
たまに遠くの方でサイレンが聞こえたが、周りのビルも倒壊した気配はなく静かだった。
携帯を見ながら腕に何かを書いている人がいて
わたしも夫と義父と父の携帯電話番号を腕に書き写した。
携帯電話の電源が切れた時と、万が一自分に何かあった時の為に・・・。
廊下の電気は消えていたので、何人かでまとまってトイレに行った。
トイレの水が流れたことに安心した。
17時頃、帰りたい人は帰ってよいことになり、その時には雪は止んでいたので、
少しでも明るいうちにと同じ方面の人2人と一緒に歩いて帰ることにした。
ロッカーに再度寄ってニット帽をかぶり、買い置きしていたカップラーメンを鞄に入れ、
サササッと給水室に寄り、350mlのサーモスの水筒とペットボトルに水を補給した。
サーモスの方には暖かいコーヒーが入っていて、ぬるめてしまうことにちょっと躊躇したが、暖より量を取った。
(ちなみに話す仕事なので、飲み物は仕事中常に持ち歩いてました。)
外ではサラリーマンやOLがわたし達と同じように徒歩で帰宅しようとしていた。
中にはヘルメットをかぶっている人もいた。
信号機は消え、ビルの前は既に渋滞していたが混乱はなかった。
動いてたらバスかタクシーに乗って帰ろうと話していたけど早々に諦めた。
(わたしは期待してなかったけど(^^;)
目の前を貸し切りにした路線バスが通り過ぎて行った時はちょっとブーイングだった。
あの会社員風のおじさん達は何者だったんだろう。どこかの会社のお偉いさんだろうか。
暗いコンビニの中には行列が見えた。トイレ待ちだったのかもしれない。
街は目立って壊れているところも火事もなかった。
アエルの横の歩道橋の下の外壁が少し剥がれ、落ちそうになっているくらいだった。
少し雪が降ってきて、上着のフードをかぶり、ビニール傘に半分入れてもらいながら歩いた。
渋滞でほとんど車は動いてなかったけど、横断歩道では手を上げた。
大きな交差点の信号は点いていた。
45号線に入る頃雪が止んだ。
ところどころ壁が少し崩れたり、ショールームのガラスが割れている以外は
地震の被害はないように見えた。
車のヘッドライトで国道は明るく、街灯が点いていないことを感じさせなかったが
マンションやビルはみな一様に暗く、人の気配はなかった。
時折、通り沿いの民家の方が懐中電灯を片手に外に出てきていたり、発電機を動かそうとしたりしていた。
途中、夫から水や毛布を持って鶴巻小学校へ避難したとメールが届いた。
一緒に歩いた2人のうちひとりは多賀城の塩釜寄りに家があるらしく
ずっと家に電話をかけていたが、歩き始めて1時間程経った頃ようやく通じ
母親の無事を確認していた。
倒れただろうと心配していた薄型テレビは無事だったが、
家の中は大変な状態で、灯りはロウソクだけ、暖房もない、
早く帰ってきてくれと言われたと言っていた。
もうひとりは新田に住んでいて、車で送ってくれると言ってくれた。
約一時間半歩いたところで新田に着いた。
国道を反れると辺りは真っ暗になり、星が綺麗に見えた。
たまにマンションから灯りが見えるけど、電気が戻っているところがあるのかな?
と期待を込めて言っていたが、それは懐中電灯の灯りであることは間違いなかった。
その人のマンションに着き、携帯電話で足元を照らしながら2階にある部屋の前まで付いていった。
マンションのエントランスは水漏れで濡れていた。
部屋に入ると彼女は「うわ、何コレ!」と連呼し、
玄関で待っていたわたし達はちょっと心配になってしまった。
閉めたはずの窓は開け放たれ、部屋は物が散乱していたらしい。
駐車場の隣に止まっていた車の中にいた人はお知り合いで
多賀城までわたし達を送って行くと言ったら反対されたらしい。
このまま運動場に避難しようかという話も出て、
わたしはあと1駅分なので歩いて帰るつもりでいたが
結局車で送ってくれることになった。
仙石線の踏切は上がっていたが、信号は赤く点滅し音は鳴りっぱなしだった。
線路を渡る時に左右をみたら苦竹方面に電車が止まっていた。
川を渡る時、橋の境目に段差が出来ていて車がガタンと揺れた。
線路沿いの細い道を行き、わたしは田子小学校の丁字路で降ろしてもらった。
車は45号線に向かったが、後日ニュースで映っていた多賀城方面の45号線は津波の影響を受けていた。
津波は昼間にきていたはずなので大丈夫だとは思うが
なぜあの時二人のメアドを聞いておかなかったのかと少し後悔している。
小学校の脇の細い道を通り、駅前に出たら懐中電灯を持ったおじさんが立っていたので
「こんばんは」と声をかけた。
車も数台止まっていたような気がするがはっきり覚えていない。
携帯電話の灯りを頼りに暗い駐輪場に入り、自分の自転車をピックアップした。
入口付近に停めておいて良かった。
駐輪場を出たところで、60代くらいのおじさんに話しかけられ
自転車のヘッドライトで駐輪場の中を照らしてあげた。
おじさんも仙台駅から歩いて帰ってきたらしい。
田子小を越え、45号線をくぐった先でおじさんと別れた。
パッと見、損壊を受けた家やアパートはないようだったが
灯りのない通りはやはり雰囲気が違って見えた。
いつも目印にしている小さいお社の鳥居が倒れていてびっくりした。
三人くらいで固まって歩いていた家族らしき人達にも「こんばんは」と声をかけた。
うちのアパートの前の駐車場には、赤ちゃんを毛布にくるんで抱えた男性が立っていた。
アパートの住人だろうとは思ったが、何号室の人かはわからなかった。
こちらから部屋番号と名前を名乗り、話しかけた。
彼は鶴巻小学校に自分達も避難するつもりで、先ほど夫にも声をかけられたと言った。
部屋の中は大変なことになってますよ、と言われたが
まだ築6年くらいのアパートだし、傾いたりヒビが入ったようには見えなかったので、
中へ貴重品等を取りに行った。
確かにしっちゃかめっちゃかになっていた。
まず、玄関の靴棚に置いてあったものは粗方吹っ飛んでいた。
と思う。暗くてよく見えなかったが。
土足のまま部屋に入った。
棚の中身も吹っ飛んでいたが、倒れている家具はなかった。
テレビ台の位置は少しずれていたが、
青い耐震用ジェルマットをかませていたテレビは倒れもせず無事だった。
素晴らしい。耐震マットは伊達じゃなかった。
パソコンはモニタ一体型の本体だけ見当たらず、
夫が車に積んで行ったかと思い、
思い出のいっぱいつまった外付けハードディスク、電源ケーブル、マウス、キーボードを
1、2泊用のお気に入りのバッグに詰め込んだ。
あとはテレビ台の上に置いてあった手作りロウソク、
テレビの前にたまたまあったウクレレとコードブック、
棚の横に置いておいた箱入り使い捨てマスク、
クローゼットの中から銀行通帳、銀行印、パスポート、保険証、市民カード、
ついでに年金手帳、ダイヤのネックレスを取り出し、
寒くて冬は開かずの間と化すベッドルームからスキーウェアとグローブを引っ張り出した。
あ、それから夫が昼休みに帰ってきて机に置いて行ったと思われる食べかけのパン。
何か食べ物を、と思ったけど台所は足の踏み場がなかった。
台所の電灯は蓄光するタイプの物でボゥっと青白く光っていた。
トイレを覗くとマンガ棚が倒れていて、数冊便器にダイブしていた。
だから便座のフタは閉めとけっつったのに、
とブツブツ言いながらマンガを救出し終えたところで携帯電話の電池が切れた。
もう一度電源を入れて、玄関に置いてあったゴアテックスのブーツに履き替え
今まで履いていたシューズは自転車のカゴの中へいれた。
こういう時ドアに鍵はかけない方がいいと聞くけど
ちょっと迷ってやっぱりかけた。
鶴巻小学校へ行く前に
こ~ぷ暮らしの助け合いの会で有償ボランティアをさせていただいたお宅を訪ねたが
2軒とも留守だった(応答がなかった)。
川沿いの道は少し川の水が溢れたのか液状化したのかわからないが
泥が堆積していた。
小学校に近いところでは夫がメールをくれた通り何軒かブロック塀が倒れていた。
途中、うちのものらしき車を見かけたが、誰も乗っていなかったのでとりあえず学校へ向かった。
学校の駐車場は選挙の時のように混んでいた。
*文字数が足りないので
その2へ続く。
余震が続き、30分程その場(机の下)で待機した後
順番にロッカールームへ所持品と上着を取りに行った。
すぐに171へ伝言を残そうと思ったが繋がらなかった。
3月9日の地震の時、結構すぐにうちの親や友達から電話やメールがあったので
まずは無事を知らせなくてはと思い、このブログと夫、父、妹、義母に一斉メールを送った。
ミクシィにもログイン出来たので、「無事です。被災地への電話・メールはしばらくお控え下さい。わたしの無事は広めて下さって結構です。」とつぶやいた。
近くの席でワンセグを起動している人に画面を少し見せてもらったが
文字はつぶれてどこが震源地かわからなかった。
多分どこかの津波の模様が映っていたと思う。
その時はまだ被害の状況などもわかっていなかったので
「今回のが宮城県沖地震だったらいいね。」などと呑気に話し合っていた。
(宮城県沖地震は30年周期に99%の確率で起こり、もういつきてもおかしくないと言われていたのだ。)
ガラスが割れると危険なので窓には近づけず、ブラインドも閉まったいたので
外の様子を確認することも出来なかったが
隙間から雪が降っているのが見えて、今日は家に帰れないかもしれないと覚悟した。
(以前このブログにも書いたリーボックのシューズは歩くのは心地よいが、雨や雪の時はとても滑り安く危険なのだ。ちなみに階段もちょっと危険。)
たまに遠くの方でサイレンが聞こえたが、周りのビルも倒壊した気配はなく静かだった。
携帯を見ながら腕に何かを書いている人がいて
わたしも夫と義父と父の携帯電話番号を腕に書き写した。
携帯電話の電源が切れた時と、万が一自分に何かあった時の為に・・・。
廊下の電気は消えていたので、何人かでまとまってトイレに行った。
トイレの水が流れたことに安心した。
17時頃、帰りたい人は帰ってよいことになり、その時には雪は止んでいたので、
少しでも明るいうちにと同じ方面の人2人と一緒に歩いて帰ることにした。
ロッカーに再度寄ってニット帽をかぶり、買い置きしていたカップラーメンを鞄に入れ、
サササッと給水室に寄り、350mlのサーモスの水筒とペットボトルに水を補給した。
サーモスの方には暖かいコーヒーが入っていて、ぬるめてしまうことにちょっと躊躇したが、暖より量を取った。
(ちなみに話す仕事なので、飲み物は仕事中常に持ち歩いてました。)
外ではサラリーマンやOLがわたし達と同じように徒歩で帰宅しようとしていた。
中にはヘルメットをかぶっている人もいた。
信号機は消え、ビルの前は既に渋滞していたが混乱はなかった。
動いてたらバスかタクシーに乗って帰ろうと話していたけど早々に諦めた。
(わたしは期待してなかったけど(^^;)
目の前を貸し切りにした路線バスが通り過ぎて行った時はちょっとブーイングだった。
あの会社員風のおじさん達は何者だったんだろう。どこかの会社のお偉いさんだろうか。
暗いコンビニの中には行列が見えた。トイレ待ちだったのかもしれない。
街は目立って壊れているところも火事もなかった。
アエルの横の歩道橋の下の外壁が少し剥がれ、落ちそうになっているくらいだった。
少し雪が降ってきて、上着のフードをかぶり、ビニール傘に半分入れてもらいながら歩いた。
渋滞でほとんど車は動いてなかったけど、横断歩道では手を上げた。
大きな交差点の信号は点いていた。
45号線に入る頃雪が止んだ。
ところどころ壁が少し崩れたり、ショールームのガラスが割れている以外は
地震の被害はないように見えた。
車のヘッドライトで国道は明るく、街灯が点いていないことを感じさせなかったが
マンションやビルはみな一様に暗く、人の気配はなかった。
時折、通り沿いの民家の方が懐中電灯を片手に外に出てきていたり、発電機を動かそうとしたりしていた。
途中、夫から水や毛布を持って鶴巻小学校へ避難したとメールが届いた。
一緒に歩いた2人のうちひとりは多賀城の塩釜寄りに家があるらしく
ずっと家に電話をかけていたが、歩き始めて1時間程経った頃ようやく通じ
母親の無事を確認していた。
倒れただろうと心配していた薄型テレビは無事だったが、
家の中は大変な状態で、灯りはロウソクだけ、暖房もない、
早く帰ってきてくれと言われたと言っていた。
もうひとりは新田に住んでいて、車で送ってくれると言ってくれた。
約一時間半歩いたところで新田に着いた。
国道を反れると辺りは真っ暗になり、星が綺麗に見えた。
たまにマンションから灯りが見えるけど、電気が戻っているところがあるのかな?
と期待を込めて言っていたが、それは懐中電灯の灯りであることは間違いなかった。
その人のマンションに着き、携帯電話で足元を照らしながら2階にある部屋の前まで付いていった。
マンションのエントランスは水漏れで濡れていた。
部屋に入ると彼女は「うわ、何コレ!」と連呼し、
玄関で待っていたわたし達はちょっと心配になってしまった。
閉めたはずの窓は開け放たれ、部屋は物が散乱していたらしい。
駐車場の隣に止まっていた車の中にいた人はお知り合いで
多賀城までわたし達を送って行くと言ったら反対されたらしい。
このまま運動場に避難しようかという話も出て、
わたしはあと1駅分なので歩いて帰るつもりでいたが
結局車で送ってくれることになった。
仙石線の踏切は上がっていたが、信号は赤く点滅し音は鳴りっぱなしだった。
線路を渡る時に左右をみたら苦竹方面に電車が止まっていた。
川を渡る時、橋の境目に段差が出来ていて車がガタンと揺れた。
線路沿いの細い道を行き、わたしは田子小学校の丁字路で降ろしてもらった。
車は45号線に向かったが、後日ニュースで映っていた多賀城方面の45号線は津波の影響を受けていた。
津波は昼間にきていたはずなので大丈夫だとは思うが
なぜあの時二人のメアドを聞いておかなかったのかと少し後悔している。
小学校の脇の細い道を通り、駅前に出たら懐中電灯を持ったおじさんが立っていたので
「こんばんは」と声をかけた。
車も数台止まっていたような気がするがはっきり覚えていない。
携帯電話の灯りを頼りに暗い駐輪場に入り、自分の自転車をピックアップした。
入口付近に停めておいて良かった。
駐輪場を出たところで、60代くらいのおじさんに話しかけられ
自転車のヘッドライトで駐輪場の中を照らしてあげた。
おじさんも仙台駅から歩いて帰ってきたらしい。
田子小を越え、45号線をくぐった先でおじさんと別れた。
パッと見、損壊を受けた家やアパートはないようだったが
灯りのない通りはやはり雰囲気が違って見えた。
いつも目印にしている小さいお社の鳥居が倒れていてびっくりした。
三人くらいで固まって歩いていた家族らしき人達にも「こんばんは」と声をかけた。
うちのアパートの前の駐車場には、赤ちゃんを毛布にくるんで抱えた男性が立っていた。
アパートの住人だろうとは思ったが、何号室の人かはわからなかった。
こちらから部屋番号と名前を名乗り、話しかけた。
彼は鶴巻小学校に自分達も避難するつもりで、先ほど夫にも声をかけられたと言った。
部屋の中は大変なことになってますよ、と言われたが
まだ築6年くらいのアパートだし、傾いたりヒビが入ったようには見えなかったので、
中へ貴重品等を取りに行った。
確かにしっちゃかめっちゃかになっていた。
まず、玄関の靴棚に置いてあったものは粗方吹っ飛んでいた。
と思う。暗くてよく見えなかったが。
土足のまま部屋に入った。
棚の中身も吹っ飛んでいたが、倒れている家具はなかった。
テレビ台の位置は少しずれていたが、
青い耐震用ジェルマットをかませていたテレビは倒れもせず無事だった。
素晴らしい。耐震マットは伊達じゃなかった。
パソコンはモニタ一体型の本体だけ見当たらず、
夫が車に積んで行ったかと思い、
思い出のいっぱいつまった外付けハードディスク、電源ケーブル、マウス、キーボードを
1、2泊用のお気に入りのバッグに詰め込んだ。
あとはテレビ台の上に置いてあった手作りロウソク、
テレビの前にたまたまあったウクレレとコードブック、
棚の横に置いておいた箱入り使い捨てマスク、
クローゼットの中から銀行通帳、銀行印、パスポート、保険証、市民カード、
ついでに年金手帳、ダイヤのネックレスを取り出し、
寒くて冬は開かずの間と化すベッドルームからスキーウェアとグローブを引っ張り出した。
あ、それから夫が昼休みに帰ってきて机に置いて行ったと思われる食べかけのパン。
何か食べ物を、と思ったけど台所は足の踏み場がなかった。
台所の電灯は蓄光するタイプの物でボゥっと青白く光っていた。
トイレを覗くとマンガ棚が倒れていて、数冊便器にダイブしていた。
だから便座のフタは閉めとけっつったのに、
とブツブツ言いながらマンガを救出し終えたところで携帯電話の電池が切れた。
もう一度電源を入れて、玄関に置いてあったゴアテックスのブーツに履き替え
今まで履いていたシューズは自転車のカゴの中へいれた。
こういう時ドアに鍵はかけない方がいいと聞くけど
ちょっと迷ってやっぱりかけた。
鶴巻小学校へ行く前に
こ~ぷ暮らしの助け合いの会で有償ボランティアをさせていただいたお宅を訪ねたが
2軒とも留守だった(応答がなかった)。
川沿いの道は少し川の水が溢れたのか液状化したのかわからないが
泥が堆積していた。
小学校に近いところでは夫がメールをくれた通り何軒かブロック塀が倒れていた。
途中、うちのものらしき車を見かけたが、誰も乗っていなかったのでとりあえず学校へ向かった。
学校の駐車場は選挙の時のように混んでいた。
*文字数が足りないので
その2へ続く。
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